「 米海軍・コリアン漁師拉致事件 」
『週刊新潮』 2009年12月10日号
日本ルネッサンス 第390回
もうすぐ12月8日が巡って来る。68年前のその日の日本軍による真珠湾攻撃は、すでに険しくなっていた米国白人社会の日系人に対する視線を一層険悪なものにした。やがて日系人は敵国日本と通ずる危険性があると見做され、カリフォルニアやハワイで強制的に収容された。収容所には日系人に加えてドイツ軍やイタリア軍の捕虜、それに多くの朝鮮半島出身者が収容されていたという。
朝鮮人捕虜の実態はこれまで殆ど知られていなかった。それを明らかにしたのは、ハワイ州立大学コリア研究センターの崔永浩(チェ・ヨンホ)教授である。
今年4月21日に発表した「ハワイにおける第二次世界大戦時朝鮮人捕虜」と題した崔教授の論文によると、2,700名もが捕虜となっており、43年末から44年初め頃に収容され始めたことがわかる。彼らはいずれも非戦闘員で、彼らを収容するために日系人とは別棟の建物を造ったと、ホノウリウリ収容所の資料に書かれているという。
朝鮮人捕虜の中には、日本軍から脱走して苦難の旅を経て捕虜となり、OSS(戦略事務局・CIAの前身)で働き、日本関係の情報分析に当たった3人の学生もまじっていた。やがて彼らはホノウリウリの捕虜問題を暴く働きもすることになった。彼らが暴いた捕虜問題の中に、気の毒な運命を辿った3人の漁民の事例が登場する。
3人の漁民は日本軍が力を失いつつあった1945年に、米海軍に拉致されたというのだ。3人は如何にして拉致されたか。崔教授は以下のように描写している。
45年4月6日、米海軍潜水艦「ティランテ」号は、慶尚道の港・三千浦(サムチョンポ)近くの静かな海に浮上した。多くの漁船が忙しそうに引網漁に専念している中、突然、ティランテ号が数ある漁船の中の比較的大型の漁船を目がけて攻撃を始めた。彼らの目的は日本軍が投錨・使用している可能性のある港湾関係の情報を得るために漁民を捕え、米国に連行し、尋問することだった。
漁民をハワイに連行
崔教授は作戦がどのように遂行されたかを、ティランテ号の当日の航海日誌を引用して描写している。
[1918](午後7時18分、以下同)浮上。大き目の2本マストの帆船追跡。
[1930]横付け難行。標的船協力せず。40ミリ砲発射。帆、大破。30口径機関銃攻撃で帆の動索大破、標的船は帆を降ろす。
[1949]横付けす。わが船体巨大なり。E・ピーボディ大尉、H・W・スペンス水兵の2名、威嚇的、完全武装で標的船に乗り移る。大声で叫びつつ、機関銃を乱射。恐怖で完全に打ちのめされ、泣き続ける漁民3名を確保。
こうして彼らは米海軍の潜水艦に移され、ハワイに連行された。崔教授は書いている。
「米海軍による3人の漁民拉致は、それが戦争中であったという時代背景を考慮に入れても我々の常識とモラルの許す限界をはるかに超えた狂気に満ちた許し難い行為である」
崔教授は、これを北朝鮮による日本人拉致と比較して、米国政府も同様の許し難い蛮行を犯したと、論難する。そのうえで「時間はすぎたが、米国政府及び海軍は正式の謝罪をし、3人の漁民の家族への経済的補償を行うべきだ」と指摘している。
それにしても、崔教授の論文には、米潜水艦への日本帝国海軍の迎・攻撃は全くなかったと記されている。45年4月に、朝鮮半島の港近くまで、米国の潜水艦が、かなりの自由度を以て、横行していたということだ。日本軍が如何に劣勢の極みにあったかが窺えるくだりでもある。
崔教授が3人の漁民のその後について書いている。
「3名の年齢は42歳の崔、43歳と44歳の2人の金だった。3人の内、船長はたった一度釜山まで行ったことはあったが、2人の漁民は自分の生まれ故郷である三千浦の外に出たことはなかった。無学の彼らは尋問されても、米国が知りたがっていた軍事情報についてはなにも提供できなかった。ほぼ無知の彼らだったが、朝鮮半島周辺海域の様子については語ることが出来た。彼らの内、43歳と44歳の2人の金の名はホノウリウリ収容所の捕虜名簿に載っているが、42歳の崔は尋問後、消息不明となっている」
崔教授は憤りを込めて結論づける。
「2,700人のコリアンは、自分の意思に反して日本によって働かされていた非戦闘員の労働者にすぎない」
「3人の気の毒な漁師は米海軍の兵士に銃を突きつけられ、真珠湾に連行された。これらの捕虜はみな、戦争の悲劇的犠牲者で、描写できない苦痛を味わった」
「現在、収容所跡に日系人の犠牲をいたむ碑が建立されつつあるが、コリアンの碑も、ともに建立し、未来の人々の戒めとするべきだ」
不掲載となった論文
たしかに、米国政府は謝罪せよという教授の主張はもっともだ。教授は右の論文を、ハワイ州立大学コリア研究センターが出版する学会誌に提出した。現地の有力新聞「ホノルルアドバタイザー」にも投稿した。だが、いずれも不掲載となったという。
理由について、崔教授はなにも語らないが、これまで光を当てられてこなかったコリアンの不法、不適切な収容について、当時の資料を駆使して書かれた論文も記事も、掲載に値する十分な価値があると思える。だが、米国の学会誌とメディアの双方がこれを拒否した。なぜだろうか。幾つか理由は考えられる。
そのひとつは米国人の歴史への想いであろう。第二次世界大戦は、日本が仕掛けた卑怯な戦争だと彼らは考える。その中で、当時、日本国民だった朝鮮半島の人々を乱暴かつ違法に扱おうが、今更問題にはしないという意識だ。また有体に言えば、人種的な差別意識もあるだろう。
ここで想い出すのは1927年に大西洋横断の単独飛行をなし遂げた英雄の著した『リンドバーグ第二次大戦日記』である。その中で氏は戦時中の米兵の、日本兵に対する残虐ぶりを書いている。
「1944年7月13日。…わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない」
「8月30日…海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかった…捕虜を…一列に並べ…英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、あとの連中は『一人も捕虜にされなかった』という」
つまり、その場で殺害されたのだ。
崔教授ならずとも、米国の非道に憤りを禁じ得ないゆえんだ。だが、米国では未だに第二次世界大戦についての米国自身への批判は封じられている。日本とは正反対の現実のなかで、崔教授の論文の存在を、日本人にこそ知ってほしいと思う。